光泉寺について
三帰依文
人身(にんじん)受け難し、いますでに受く、仏法聞き難し、いますでに聞く
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん
大衆(だいしゅう)もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし
自ら仏に帰依したてまつる、まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して無上意を発さん
自ら法に帰依したてまつる、まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて智慧海のごとくならん
自ら僧に帰依したてまつる、まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して一切無碍ならん
無上甚深微妙(じんじんみみょう)の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し
我いま見聞(けんもん)し受持することを得たり、願わくは如来の真実義を解したてまつらん
法規
- 役員、および総代
代表役員 松山 弘明 (住職)
責任役員 松山 公顯 (候補衆徒)
責任役員 (坊守)
総代 -
総代 -
総代 -
(総代の方につきましては、当分の間は掲載はいたしません)
歴史
- 開基・開山
沸然上人(佛然上人、浄泉坊佛然)(先祖)
~文明7年(1475年)
蓮如上人の直弟子と伝えられる
- 中興開基
賢了庵釈秀天(先祖)
~天正8年(1580年)
應仁元年一月、現在の地に沸然上人(俗姓、藤原朝臣)を開山として創始される
時期については、「常滑市誌」に文明7年(1475年)より少し前(沸然上人の没年の少し前)に、と記載されている
永禄年間(1558年~1570年)に、一時、兵火のため焼失する
その後、中興開基、賢了庵釈秀天により再興される
中興二世の折に、妻、伝通院(徳川家康公の御生母、於大の方)の御乳母となり
また、その由緒を以って以下の御品を下賜される
御紋付御打敷、御茶入、御菓子盆、長柄御傘
なお、伝通院の御位牌については、今も現に安置する
本能寺の変(1582年)の折に、徳川家康公が三河への帰途につかれ、大野へ上陸されて成岩の常楽寺へと赴かれた
さいに、記念に薙刀を置いていかれたと云われる。
また、一説には徳川家との姻戚関係により、拝領した物とも云われる。
慶長13年10月(1608年)、境内地2反5畝歩を拝領する
元和3年(1617年)、尾張藩初代藩主、徳川義直公(源敬公)におかせられては、知多郡への御巡視の折に
先々の縁故を以って、御立ち寄り被遊される
また、伝通院の御菩提のため以下の御品を下賜される
御紋付御長刀一振、御紋付御髪請、御紋付御提灯四張
万治2年(1659年)、尾張藩二代藩主、徳川光友公(源正公、瑞龍院)におかせられては、御鷹野の折に
御立ち寄り被遊される
また、その折に以下の御品を下賜される
御紋付白地七條袈裟一衣、御懸物、古法眼筆、寒山之僧一軸
江戸時代初期までは、浄泉寺と云った。また、同中期には大野の光明寺の末寺であった
その間、寛文9年(1669年)の頃、故あって寺号を光泉寺へと改称する
文政5年9月(1822年)、松林山の山号を申請する
参考文献
江端祥弌(1999年)「大野谷風土記」南粕谷コミュニティ,327p
郷土研究会(1933年)「郷土読本-伝説篇」三和第一尋常高等小学校,50p (常滑市立図書館蔵)
他
(詳しくは、後ほど掲載いたします)
